<二の鳥居>
平泉白山神社の続きです。
三之宮方面へ向かいます。
参道の途中には納経所の跡地や小さな社殿がありました。
納経所とは法華経を写経し、その一部ずつを日本六十六ヶ所の神社に納めながら諸国を巡礼した所で、越前では唯一ここだけだそうです。
<楠木正成の供養塔>
三之宮の拝殿があった場所。楠木正成は後醍醐天皇を奉じ、武家政権の鎌倉幕府の打倒に貢献した武将ですが、私が最初に頭に浮んだのは聖徳太子の「未来記」楠木正成はあの未来記の一部を読んでいるんですよ~。
<正成が見た未来記>
正成は聖徳太子によって建立された天王寺を参拝し、馬と太刀、鎧一領を奉納して、老僧に聖徳太子が残した未来記を見せてほしいと頼んだという。特別に見せて頂いた一巻には下記のような内容が記されていた。
人王九十五代に当たって、天下一たび乱れて、主安からず。
この時 東魚(とうぎょ)来たりて、四海を呑む。
日、西天に没すること三百七十余箇日、西鳥(せいてう)来たりて、東魚を食す。
その後、海内(かいだい)一に帰すること三年。
獼猴(みこう)の 如き者、天下を掠すむること三十余年。
大凶変じて一元に帰す。
これらが何を指しているのかというと、
「人王九十五代」⇒第96代天皇後醍醐天皇
「東魚」⇒鎌倉幕府
「四海」⇒日本
「日、西天に没すること」
⇒後醍醐天皇が隠岐に流刑。
「西鳥(せいてう)来たりて、東魚を食す」
⇒鎌倉幕府を倒す者の出現。
正成は後醍醐天皇が帝位に返り咲くと解釈し、鎌倉幕府の打倒を確信したのでしょう。
<勝利後の未来は暗転>
実際、正成は鎌倉幕府を倒し建武の新政下で足利尊氏ともに天皇を助けましたが、その後、尊氏の反抗により新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったものの、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害。
未来記の
「その後、海内(かいだい)一に帰すること三年」
ここを正成がどのように解釈したか、それは分かっていない。
「獼猴(猿)の如き者」は足利尊氏が分裂の災いを起こしたことに繋がるのではないかと思われる一文。
結局、正成は自害するに至って「やはり予言通りになったのか」と思ったのかな・・・。
<現れた正成の霊>
正成の甥の恵秀律師(えりゅうりっし)がこの拝殿でお勤めをしていると、正成が鎧甲の武者姿で目の前に現れたので、恵秀律師が不思議に思い調べてみると、この日に正成が湊川の合戦で戦死していたことを知ります。
その後、恵秀律師は供養の石塔を建てたそうです。
さて、三之宮までの道のりは長いですが、やっと見えて来ました~。
<三之宮>
御祭神:栲幡千々姫尊(たくはたちぢひめのみこと)
安産の神様
若干ピリピリしてきました。
暖かいエネルギーでしたよ。三之宮の裏に泰澄大師が登ったとされる白山への登山道があります。
再び元に来た道を引き返し、境内の神社を参拝しました。結構広いです。<泰澄大使を祀る社>
<今宮神社>
御祭神:鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)
神武天皇の父
稲荷神社もありました。
最後に駐車場の所まで戻って来ると反対側になにやら石に書かれています。<東尋坊屋敷跡>
ここにあの東尋坊の屋敷跡があり、石畳など発掘されたそうです。
日本昔ばなしでは東尋坊は僧侶ではなかったですが、こちらの記載では東尋坊は強力(ごうりき)の僧侶で三国の岸壁から突き落とされたとあります。
いずれにしても、本当にいたんですね。
雄島へ行って東尋坊を思い出していた時に平泉寺が頭に浮かびましたが、やはり関係していたとは。なんだか複雑な心境~。
次はここから車で3分の越前大仏に向かいます。
聖徳太子「未来記」続編①<三悪魔>
<平泉白山神社>
住所:福井県勝山市平泉寺町平泉
駐車場:4ヵ所有り
授与所:有り
トイレ:有り
MAP:
HP