壱岐神社(いきじんじゃ)
波切不動の手前の丘にある神社。
割と新しい神社なのかなという印象。特に調べず伺ったのでどなたが祀られているか存じ上げませんでした。
ところが、ここに来たことがきっかけで自分の過去生を知ることになったのです。
<手水舎>
龍さんがでかいですね(*^▽^*)
壱岐護国神社というのぼりの文字をみて「護国神社」は戦争など国事で命を落とした人を祀る神社の為、壱岐が戦争に巻き込まれたとしたら元寇?と思ったら、どうやらそのようでした。
拝殿に入っていきなり中央に貼られた「元寇碇石」がそれを証明。
左上には戦いの絵が描かれています。
2回攻められ、2回とも神風が吹き日本軍が勝利を収めたと中学生の頃だったか習った記憶があります。
ところが帰宅してからよくよく調べてみると、近年になってそれがやや違って
いた事と、とんでもない悲惨な状況だったことが分かり、胸が詰まる思いになり
ました。
長崎に10年程住んでいましたが、今更こんなことを知った自分を恥じると共に
今回なぜ壱岐に来たのかが分かったのです。
日本史上最大級の危機となった歴史を振り返ってみると・・・。
<元寇とは>元寇というのは鎌倉時代中期にモンゴル帝国(元朝)と高麗によって2度にわたり日本へ侵攻された有事のこと。
1274年(文永の役)
1281年(弘安の役)
<原因>
元の皇帝・フビライが日本へ友好関係を築きたいと何度も遣いを出したが、北条時宗を中心とする鎌倉幕府は、元が支配できていない南宋と国交を結んでおり、元の思惑(日本の金や硫黄を狙っている)事が南宋からの情報で知っていた為、これを無視した。
ちなみに1266年~1272年に6回の国書(詔書)が送られていますが、荒波で届けられなかったり、入京許可が下りず、太宰府に届いたのは2回。
その2年後、遂にフビライが高句麗に命じて攻めて来たのです。
<対馬・壱岐での壮絶な殺戮>
文永の役
壱岐守護代の平景隆(たいらのかげたか)は、既に多くの人が惨殺された対馬が全滅したと聞き、兵の準備を進め唐人原(とうじんばる)で元軍と激突。100騎で戦うも元軍の多勢と独特の戦法で樋詰城へ撤退。
娘の姫御前(ひめごじょう)を呼び、家来をつけて大宰府へ元軍の壱岐襲来を伝えるように命じる。姫は城を脱出するも元軍の毒矢に射られ、途中で自刃します。
景隆軍は翌朝取り囲まれ総攻撃を受けて一族郎党とともに自害。
武士だけでなく住民も見つけ次第、殺されました。
その惨殺な方法とは
・赤子は股から引き裂かれる。 ・男性は耳や鼻を削ぎ落とし、もがき苦しむ様子を楽しんだ後に 斬り殺された。 ・女性は掌に穴を開けられ、綱を通し授受繋ぎで引きずり回した後、 軍船の船べりに結び付け鎌倉軍の盾にされ溺死させられた。 ・子供はさらわれ奴隷として元へ献上された。 |
また、山へ逃げ込んだ家族は子供が恐ろしさのあまり泣いたことで執拗に追いかけて来た元軍に見つかり皆殺しにあった。
防空壕のように穴を掘って身を隠した場所も今現在残されています。
山のように積み重なった亡骸を埋葬したのが「千人塚」。壱岐の各地で見られ、
志賀海神社がある志賀島に日本軍と蒙古軍の戦死者の慰霊碑が祀られています。
<戦法の違い> |
壱岐が陥落。
勢いが止まらない元軍は、博多湾へ侵攻。
現在の福岡市赤坂付近で激戦。日本軍は苦戦を強いられた。
しかし少弐 景資(しょうに かげすけ)又は彼の郎党が敵の副総大将:劉復享(りゅうふくこう)を射って致命傷を負わせた。
翌朝、博多湾に到着すると元の軍船が一艘も見当たらず。
元軍は撤退していた。その後、暴風雨によって元軍の軍船の半分が沈没。
当時世界の約30%を統治していたモンゴル帝国。その超大国を相手に日本は2度目の襲来でどのように勝利できたのでしょうか。
弘安の役
1275年と1279年に再び元から国交を結ぶ為の使者が送られたが、ことごとく
斬首。文永の役の恨みを込めた返事だったと言われている。
5月高麗から(4万人)900隻と中国軍(10万人)3500隻の船が壱岐へ侵攻。
北条時宗は襲来に備え「異国警護番役」という兵力と防御力の強化をこの7年間準備してきた。
<異国警護番役> ・九州各地の沿岸に高さ2m、20kmも及ぶ防塁を築いた ・武士団は昼夜沿岸の警護 ・御家人ではない武士も幕府の指揮下においた ・弓矢も射程距離の長いものにし、上陸されないようにした。 ・大勢で取り囲まれる戦法を回避する為船に乗り込み先手を打つ方法。 ・元軍の情報収集。 |
<最強の鎌倉武士団>
鎌倉武士団の戦費は自腹で、功績を挙げないと土地をもらえない等、幕府との報酬が成立していたから死ぬ気で戦ったと言われている。
野蛮で民をも練習用として弓で射る話しが出ているが、そうした史実は記されていない。
弓矢の威力は1m以上もの長いものに変え、3人~5人でないと引けないような強力な弓を扱った。この弓は盾や鎧を貫通させる威力があった。
壱岐に壊滅的な打撃を与えた元の東路軍。
博多湾へ侵攻したものの防塁が功を奏し阻まれて上陸できず。
小舟に乗って夜襲をしかける鎌倉軍の徹底抗戦で東路軍は壱岐へ退いた。
壱岐の瀬戸浦では少弐資時の父である経資(つねすけ)を総大将に日本軍が激戦を繰り広げ、元軍に大損害を与えた。しかしこの戦いで息子の資時は戦死。
7月30日東路軍は平戸島で江南軍と合流し博多湾へ侵攻しようとしたところ、激しい暴風雨に遭い元軍はほぼ壊滅。
捕虜3万人は可能な限り助命し高麗人の技能者は生かされた。
11年後に来日した国司が殺されたと思っていた捕虜が生きていたことに感謝し謝意の国書を送っている。
御祭神:亀山天皇、後宇多天皇
少武資時公(しょうに すけとき)
少武資時公
文永の役で叔父・少弐景資に従って12歳で初陣を果たし弱冠19歳で壱岐守護代に。壱岐島を占領する東路軍と奮闘の末戦死。
改めて亡くなった人々のご冥福と壱岐の発展を祈願しました。
<神風>
世の中に偶然ということはなく、起きるべきして起きたと思います。
当時は祈祷もやっていたので嵐を起こすこともできたでしょう。
しかしその前に多くの犠牲者と元軍と戦った日本軍の勇者達の決死の覚悟が神風
を呼んだのではないかと思っています。
更に元寇の前にも惨劇は起きていました。
続く。