太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)
1月4日、九州ライトワーク最終日は太宰府天満宮へ伺いました。
本日は珍しく曇天模様でめちゃくちゃ寒い!雪が降りそう~。
天神から電車に乗ってドアツードアで約1時間弱で到着。
結構広そうですね。
中央左上に位置する天開稲荷社へは後で伺います。
またその更に上にある山の神社は鬼滅の刃の聖地とされる竈門神社。
山頂まで徒歩約6km、標高差720mの山に鎮座しています。
(今回は伺いませんでした)
太鼓橋が3つあります。
こういう場所も片側通行で反対側の人の為に開けてますね。
日本人は律儀というか思いやりがあるというか、まじめというか、ある意味感心します。
橋を越えると凄い人。猿回しをやっていて人だかりができていました。
<麒麟>
麒麟の像を置いているとは珍しい!麒麟が近い将来現れてくれますように。
江戸時代に博多の商人によって制作、ご奉納されたそうです。
<御神牛>
楼門手前に牛さんがいました。太鼓橋を渡る前にもいましたが、牛さんをナデナデする順番待ちで凄い行列でしたよ。
でもこちらの牛さん、「撫でてみるとわかるよ。」と言って撫でさせてもらったらとっても暖かく勇気が湧くようなエネルギーを頂きました。
なにかそういうお役目なのでしょうか。
お正月休みで人が多いから楽しくて仕方ない様子でしたね。
まるで生きているみたいな牛さん。こちらの牛さんの方が空いているので是非ナデナデしてあげてください。境内には11体の牛さんがいます。
<楼門>
この楼門の手前は礼によって「福みくじ」をやっていて凄く賑わってました。
というのも若い巫覡(ふげき:男性の巫女)がマイクを使っておみくじを盛り上げていました。まるで実況中継をしているような、
ジャパネットタカタのような、口が達者でとても面白しろくて、長蛇の列ができてい
ましたね。外人さんも沢山いて盛り上がっていました。
<仮拝殿>
屋根に木が生えている所が風流です。この後ろに現在改装中のご本殿があります。
凄い人なのでお賽銭を入れてご挨拶だけしました。後で人が少ない場所でワークをさせて頂きました。
「自分が成すべきことをやりなさい」そういうメッセージが伝わってきました。
とてもまじめな方という印象です。
<摂社、末社>
こちらも沢山のお社がありましたね。
摂社:道真公とゆかりの深い神様、
末社:そ国家や社会を御守護いただく神様計37社をお祀りされていました。
また、階段を上がった所には中島社がありこちらはお菓子の神様、田道間守命(たじまもりのみこと)をお祀りしています。全国でも珍しいそうです。
<大樟(おおくす)>
ご本殿の裏に鎮座される木が素晴らしく絶句しました。樹齢1,500年だそうです。
<倉稲魂大神>
太鼓橋を渡ったすぐにありましたが、猿回しで人がごった返していたのでそのまま展開神社へ行って戻って来た時にお詣りしました。
こちらもエネルギーが強いですね。
<菖蒲池>
気持ちのいい景色です。
ここはリラックス出来て且つ沢山の精霊がいるようで気分が上がるところですね。
<菅原道真について>
なぜ三大怨霊と呼ばれるようになったのか
学問で朝廷に仕える家系にお生まれになり5歳にして和歌を、11歳で漢詩(月夜見梅花)を詠まれ幼少よりその才能を顕されます。
33歳にして学者の最高位である「文章博士(もんじょうはかせ)」に任じられ税制度の見直し改革を実施。
いち早く世界情勢を察知され、50歳の時に長年続いた遣唐使の停止を提言。
<清涼殿落雷事件とは>
道真公は、宇多天皇の絶大な信頼を得ていた。右大臣に昇進の話しがあり、道真は家が儒家であり家格が低いことと、出世につけて中傷が増えたため辞退したいと上申していたが、悉く却下された。
翌昌泰3年(900年)には右近衛大将の辞意を示したが、これも却下された。
昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったとして、醍醐天皇により、1月25日に大宰員外帥に左遷された。
時平と道真が左右大臣として肩を並べたことで妬んだ藤原時平や官僚等の策謀により、いわれのない罪をきせたれた事件。
宇多天皇が相談した相手は道真一人であったとされる。
宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会しとりなそうとしたが、衛士に阻まれて参内できず、また道真の弟子であった蔵人頭藤原菅根が取り次がなかったため、宇多の参内を天皇は知らなかった。
弁明などは一切聞き入れられることなく、囚人同様の扱いで太宰府に幽閉された。
長男の高視を始め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)失意のうちにわずか2年で非業の死を遂げる。
その後、異変が起きた。
・藤原時平は突然39歳で没する。
・宮廷内で落雷が発生して複数の貴族が命を落とした。・洪水、長雨、干ばつ、伝染病などが毎年発生するようになった。
・醍醐天皇までが体調を崩して3ヵ月後に崩御。
これらを菅原道真の祟りとして社を建立し、菅原道真を神様としてお祀りし怒りを鎮めようとしたのが今の太宰府天満宮となったのです。
しかしながら大宰府で衣食住に事欠く不遇の境地にあってもなお、国の平安を一心に祈られていて59年の生涯を終えられていますが、「祟り」というのは人々の勝手な思い込みが集合し創り上げたものが更なる災厄を呼んだのでははないかと思っています。