一遍上人(いっぺんしょうにん)は、 <幼少期~成人>
1237年、伊予(愛媛県松山市)で生まれ、10歳で母と死に分かれる。父の勧めで出家し、12年間浄土宗の寺々で修行を積む。
父の死で故郷に帰り、半僧半俗の生活を送るが、親戚のいざこざで襲撃事件が起き、故郷を離れる。
最初に訪れたのは信州の善光寺で「二河白道図にがびゃくどうず」を写して自分の本尊とされた。一遍上人はこの善光寺での参籠によって、人々への化益を強く決心する。
<遊行へ>
故郷へ戻り、三年間の参籠の間に「十一不二頌じゅういちふにじゅ」を感得。その後、家や土地など一切を捨てた遊行の旅へ。
学問や理論ではなく、余計な考えは捨て、南無阿弥陀仏と声を出してとなえることを人々に勧め、念仏勧進を行う。一遍上人は遊行で出会った人々に「南無阿弥陀佛」と書かれた念仏札を配った算ふだを賦くばり結縁すること、これが「賦算ふさん」。
<熊野での出来事>
熊野山中で出会った一人の僧に「信心を起こして南無阿弥陀仏と唱え、この札をお受けなさい。」と札を渡しましたが、その僧は、「いま一念の信心が起こりません。受ければ、嘘になってしまいます。」と言って受け取りません。「仏の教えを信じる心がないのですか。なぜお受けにならないのですか。」と尋ねると「経典の教えを疑ってはいませんが、信心がどうにも起こらないのです。」と答えました。
念仏札を拒否されたことに一遍はショックを受けますが、僧の言葉は理にかなっています。
このことに苦悩し熊野本宮大社証誠殿の御前で啓示を仰がれます。すると、夢の中に熊野権現(阿弥陀如来)が現れ
「一切衆生の往生は、阿弥陀仏によってすでに決定されていることなのです。あなたは信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、人を選ぶことなくその札を配らなければなりません。」
このご神託により「信心の有無や心の浄らかさにとらわれず結縁を勧める」を説いて全国を回ります。
<踊り念仏>
九州を出ると、四国、中国地方、京都、信州、関東、東北へと一処不住で回られ、鎌倉へ。
鎌倉では禅宗の寺院が北条氏の保護を受けて盛んになるのをみて、各宗の高僧たちは鎌倉での布教を試みたが、仕事と食料を求める浮浪の人々も数多く集まって来た。
一遍上人も多くの民衆への念仏勧進を願い、鎌倉に入ろうとしたところ、こぶくろ坂で警護の武士が行く手を遮った。浮浪者の取り締まりを厳しくしていた鎌倉に、乞食のような恰好をした僧尼の一団を入れる訳にはいかなかった。
武士に棒で叩かれながらも一遍上人は、「人々に念仏を勧めて歩くことが私の命である。このように制止されれば、どこへ行けばいいというのか。いっそこの場で命を終えよう。」
一遍上人の衆生化益への強い意志と気迫に圧倒されたのか、武士は鎌倉の外では布教が禁止されていないと告げます。
一遍上人は片瀬(神奈川県藤沢市)へ向かい、その後、小田切の里(現在の佐久市臼田)で“南無阿弥陀仏”の六字名号を称えながら阿弥陀仏に救われるという約束があることを信じて、その喜びのあまり自然に体が踊りだした、「踊り念仏」を修める。
太鼓や鐘などを打ち鳴らし、踊りながら念仏や教えを唱えるものとなり、これが現在の盆踊りや歌舞伎踊りなどにも大きな影響を与えている。
京都では一遍上人の念仏札を求め、その数は16年間で25万1724人にのぼったとされている。
一遍上人さんを存じ上げてなかったんですが、踊念仏の太鼓や鐘などを打ち鳴らし、踊りながら念仏や教えを唱えるものとは、なかなか理にかなってるなと思いました。
音というのがとても大事でこの音の周波数が人々の肉体、精神、エネルギーフィールドを整え、活性化させることで仏様や神様と繋がりやすくしているんですね。
太鼓や鐘が無かったとしても、口から発せられる言霊、特に日本語は宇宙に響きやすい愛が秘められたバイブレーションがある為、古くからこの言霊を使って唱えることで、神々とのパイプを強くしていたんです。
南無阿弥陀仏とは、永遠の命をもつ阿弥陀仏様に帰依する(お任せする)いう意味で今風に言えば、宇宙の流れに逆らわないでいるとなるように成り、誰もが救われるということです。
念仏とか真言は私的には最初はあまり信じていなかったんですが、一種の呪術みたいなもので正しく使うことでその効力を得られると実感しています。