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<元寇前の殺戮>
更に元寇の約255年も前に「刀伊の入寇(といのにゅうこう)事件がありました。
高麗(朝鮮)から対馬と壱岐に50隻(約3000人)もの海賊が来襲したのです。
ちなみにNHK大河ドラマ「光る君へ」の46話でも刀伊の入寇が出てきたそうです。
刀伊は中国大陸北東部の女真族(ツングース系)で海賊化した民族。後に「金」や「清」を建国しています。
この時も対馬・壱岐で多くの被害が出ました。
・対馬では老人や子供36人惨殺。
・連れ去られた者が270人。
・牛馬犬は食い殺された。
・各地で民家が焼き払われた。
・壱岐では148人が惨殺。
・女人239人は捕虜として連行。
対馬の国司である「対馬守遠晴」は生き延びて太宰府へ刀伊来襲の報告。
平安時代最大の危機です。
壱岐で生き残ったのはわずか35人に過ぎなかったそうです。(画像はwikipediaより引用)
壱岐の亡くなった人の数が多いのは地形的に平坦な場所が多く、山も大して高くないから見つかりやすかったのだと思われます。当時の船で8時間くらいで対馬へ到着できたらしいです。
<状況>
4月9日賊は博多へ上陸。
翌10日、11日は強烈な北風が吹き、海が荒れたため賊は能古島から出ることができず。
この大規模な侵略を経験した者はおらず、非常事態だったにも関わらず藤原隆家は急ぎ兵船38隻を集め九州北部沿岸にも精兵を配置し、迎撃体制を整えた。
賊は12日から志摩郡船越津に上陸を始めたが、日本軍が放つ音が出る矢を恐れ怯み、日本軍側による騎射戦で善戦。
捕虜となっていた壱岐の人が、日本兵に『馬を走らせて矢を射よ、臆病になるな』と激励したと『小右記』に記されています。
壱岐の人はどのような状況でも諦めず日本を守り通そうとしていたのです。
また、大宰府の文官にも武器を持たせて戦わせたと記述が残されている為、戦えるものは総勢力で応戦したと思われます。
そして逃走しようとする賊の船に兵船が追撃戦を敢行、撃退に成功しました。
<撃退後の隆家と朝廷の対応>
藤原隆家ら指揮官の活躍で日本は難を逃れることができました。
隆家は朝廷へ報告するとともに部下へ恩賞を申し出たが、朝廷からは「恩賞は無し」とされる。
それに意を唱えた者達によって後で恩賞は与えられたが2名のみだった。なお、隆家自身は報酬を求めなかったそうです。
<拉致者の帰還>
拉致されて船に乗せられていた日本人300人ほどが高麗軍に保護されて無事日本へ戻されています。
この時も朝廷の反応は高麗には裏があると疑心暗鬼になっていましたが、高麗の使節に対し隆家は自前で黄金300両を贈りました。
<藤原隆家とは>
平安時代中期の公卿。摂政関白内大臣・藤原道隆の四男。
当時、叔父の藤原道長が権力を握り、隆家は政争に敗れ、お互いの従者の乱闘事件や藤原隆家自身が「花山法皇」(かざんほうおう)一行に弓を引くという「長徳の変」を引き起こしたことで出雲へ左遷された。
その間、恩赦があり京へ戻って職務に励んだが、目の治療で名医がいる太宰府へ。
その後、大宰府の長官代理に任命。
刀伊の入寇が起き、指揮官として対応することになった。(画像はwikipediaより引用)
1019年12月に大宰権帥を辞して京へ戻った隆家。
功績のあった藤原隆家を大臣・大納言に登用すべきとの声が上がったものの昇進はされず。
それどころか寛仁4年には都に疱瘡が大流行し、刀伊が大陸から持ち込んだものが隆家に憑いて京に及んだものと噂された。
1037~1042年再び大宰権帥を務め、1044年に数え66歳で没した。
天下の「さがな者」(荒くれ者)として有名であった隆家は政敵の道長も一目置く存在だった。
※花山法皇については以前記事にしていますので下のリンクをご覧ください。
<過去生のトラウマ>
特に大きな悲劇の舞台となった壱岐・対馬。
3回もの惨劇に見舞われ心が痛みました。
正直言うと、今回壱岐に行くのは楽しみな反面、心が不安や恐怖を感じていたのです。
この不安や恐怖は一体なにか?
自分でも行く前に探ってみました。
今回の旅で車で事故るのか、飛行機が墜落するのか、それとも何か損害が発生する出来事が起きるのか、色々心に尋ねてみましたが、そういう未来的な恐怖や不安ではなさそう。ではいったい何だろう?
実際、フェリーに乗って段々壱岐島が見えて来た時にワクワクしている中、なんとなく心の奥底で拒絶しているような感覚が湧き出していました。
やっと来れた壱岐だから嬉しい筈なのに何故?・・・。
壱岐の各地を回る度に、それが潜在意識から来る魂の「怯え」だと分かりました。
そして壱岐にはどこか島全体がブルーの悲しみと癒しに満ちた色をしているように見えていました。
<過去生への旅>
おそらく過去生でこの時代かその後に私は壱岐のこの惨劇を知っていたのでしょう。
魂の記憶が拒絶していたんですね。
ただ、自分の過去生を探った時、壱岐で生まれたとかこの惨劇の体験をしたとかではなさそうです。もし惨劇の当事者ならば、もっと衝撃的な感覚(ハンマーで殴られたような感覚や懐かしさが込み上げたり、心臓がバクバクしたりする筈)ですが、それが無かったのです。
深く掘り下げて視ると、壱岐ではない本土に生まれ、壱岐に愛する人や縁者がいたようでした。
そう確信したのは、月讀神社のあるモノを見て気付いたからでした。
<ムクリコクリ人形>
ツキヨミ神社で最初にこれを見て猫みたいで可愛いな~と近づいたら、忽ち怖くなって背筋が凍り付く程ゾッとしたのです。
「蒙古がやって来るそ!」という声が頭の中から聞こえてきました。この時、人形達が蒙古人になり沢山攻めて来る様子が見えました。
私は6,7歳の女の子で本当にやって来ると思って怯えている姿が見えました。
これは郷土人形のムクリ(蒙古)コクリ(高麗)を表した人形だそうです。
泣き止まない子どもに「ムクリコクリが来るぞ」と言って言い聞かせるものらしいです。
ツキヨミの記事を書いている時に、この画は怖いから載せるのやめようと思っていましたが、皆さんに知ってもらう為、結局載せることにしました。
ちなみに「むごい」という言葉は蒙古が無慈悲で残酷だったことからのきた語源だそうです。
<行きたい場所の意味>
このムクリコクリを知っていることと魂が恐怖で震えている感覚から私の過去生での記憶が呼び覚まされたようです。
今回の旅は自分の魂のトラウマを癒す為のものでもあったんだと改めて感じています。
ライトワークに限らず自分が行きたい場所は自分の封印を解いたり、トラウマを癒したりすることも多くありますし、覚醒の手助けもしてくれます。
初めて行く場所で「ここ知ってる!」「懐かしい!」と感じた場所、夢で見た所とそっくりならば、それは過去生でそこに住んでいたか、深い関わりを持ち、潜在意識に記憶から消されず刻まれた場所になります。
そうした意味でも自分が気になる場所は行ってみると良いと思います。
実は元寇の際、上陸された北西部へのライトワークも予定していましたが、時間の都合で結局行けなくなってしまいました。
気持ちでは行きたいと思っていましたが、潜在意識が拒絶していたんでしょう。行けてない代わりに、現在は遠隔で癒しのワークを取り入れ、悲しみの想念が光に変わることを願っています。
なお、今回は壱岐市立一支国(いきこく)博物館が年末年始で休館でした。
色々な歴史情報が満載のようです。また、壱岐神社の上の方が気になったんですが元々、壱岐神社自体も伺う予定ではなかった為、時間に余裕がない事もあり行きませんでした。
後で少武資時のお墓があったことが分かりました💦
やはりその土地の歴史をある程度調べて行った方が良いですね。
<波切不動>
壱岐神社を出て海方面へ下って行くと、波切不動が祀られた小さな島があります。
こちらは、途中まで行けたのですが、土砂崩れか何かで通行止めの看板があり、小島へ行けなくなってました。とっても残念。
遠くからですがご挨拶をして、この海が護られ循環されつづけるようワークをさせていただきました。
近くに魚でもいないかなと適当にズームした瞬間、魚がフレームに入っているのを偶然捉えました!動いていたので更にズームするとクサフグさんかな~。
最初、二匹だけだと思ってましたが、この画像(動画からの切り抜き)を確認していたら3匹いることが分かりました。可愛いですね(*^-^*)
対馬・壱岐は近隣諸国の脅威が常に付きまとい、真っ先に被害を被る島でもありますが、その島民・武士達は私達が思っていた以上に強く、現在の日本人に足りていない気骨な精神を持っていたことが窺えます(動画参考☟)
<風の時代>
今、日本は獅子身中の虫に蝕まれています。過去の人々が守った土地も公共施設も外国の手に渡っています。
命がけで守ってきた人々の想いを無駄にすることなく、私達の中にある「大和魂」を呼び起こし、日本を建て直す。即ち自分自身を目覚めさせ、自分がどう成りたいのか、どう
生きたいのか、世の中がどうなることを望むのか、それを描いて実現するための行動を起こす必要があるのだと思います。
愛と調和が取れた世界が実現しますように。
壱岐神社>
住所:壱岐市芦辺町瀬戸浦233
駐車場:有り
トイレ:有り
社務所:有り
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