神が示したキリギリスの教え(不思議体験話)

私が20代の頃、神奈川県の寮にいたのですが、そこから近いあるお店の子供が病気になり、親がカトリックで(手を出さずあるがまま成り行きを見守る)という教えを貫き、結局、子供が治療されることもなくそのまま亡くなったというニュースがありました。

私は知人からその話を聞いて愕然とし、そういう教えがあることに恐ろしさを感じた程でした。

その数年後、当時勤めていた会社にカトリックの同僚がいて、ある日の出来事で論争となったことがありました。

それはある動物園でライオンの子が生まれ、母ライオンがその子を見て育児放棄。子どもは足に障害を持って生まれた為、母ライオンは見放したのです。
野生の世界ではそういう子は生きていけないので放置されることは知っていました。
カトリックの同僚は「これも運命だから何もしないのが自然なんだ」と言う。
私は「でも動物園なら人間の管理下だから、人間が世話をすべきではないか」と。
「そういうふうに生まれる運命だったんだから人が手を貸してはそのものの運命を変えてしまうのでよくない。修行しにこの世に生まれ出ているから他のものが介入すると学べなくなるんだよ。」と同僚は反論。
「黙って放置して命を粗末にするってこと?それは納得できない」と私も反論。
お互いに白熱してきましたが、特に喧嘩をするわけでもなくその日は収まりました。

しかしイマイチ納得がいかないまま月日が流れていきました。

都内へ引っ越ししたある日、買い物へ出掛けようとしたところ、なぜかその事が思い出れました。
『手を出すとそのものの学びにならない』本当にそうなのだろうか?
困っている人を助けることはNGってこと?

そんな事をぼんやり考えながらチャリで買い物へ行く途中、自宅から90m位先の道路の真ん中にキリギリスがヨタヨタと歩いていたのです。

(なんでこんな街中に!?)大分弱っている様子でした。

早く草むらに運んであげないと!そう思いチャリを止めましたが、その時あの言葉が遮りました。

『手を出すとそのものの学びにならない』今私が助けることで、キリギリスにとって学びにならないことになるのか?余計なお世話になるってこと??

道路に出ていた虫が人や車の被害に遭いそうな場合、私は別の場所へ運んでいるのですが、善意でやっていたつもりが、もしかしたら邪魔をしていた事になっていたのかもしれない。そんな風に考えると増々分からなくなってきました。

もしカトリックで言うように『手を出してはならない』ということが正しいのであれば私が納得いく形を示して下さい。と心の中で神様にお願いしました。
そして私はこのキリギリスには手を出さず、そのまま通り過ぎる事にしたのです。

買い物帰りにその道を通ったらキリギリスはいなくなっていて、周辺を見てもいない様子でした。
(どこかへ無事に移動したのかも。自分の力でなんとかなったんだから、やはり手を出さ方が良かったってことなのかな・・・)

そう思ってその日はホッとして寝ました。翌朝、会社へ出掛ける時、マンションの1Fの階段に降りた際、キリギリスが倒れているのを発見!
まるで階段へ上がって行こうと手を伸ばすかのような恰好で、誰かに踏まれて潰され無残な姿でした。私は愕然とし、暫くは言葉になりませんでした。
(朝まで時間をかけてここまで来ていたなんて・・・。こんなことになるなら、あの時草むらへ運んであげれば良かった・・・)

まるで助けを求めるような恰好で死んでしまった。私はひどく後悔しました。その後、キリギリスを持ち運ぶために一旦部屋へ戻って袋とティッシュを持って戻って来たら、そのキリギリスは不思議なことに忽然と消えていたのです。

どこを見てもいない。お腹が破裂して、見に堪えない状態だったのに、その痕跡も麗になくなっていました。誰かが片付けたのだろうか。でもこんな短い間に。

キリギリスの最期を見た時、神様にお願いしたことが示されたのだと理解しました。

もしカトリックで言うように「手を出してはならないということが正しいのであれば私が納得いく形を示して下さい」最初にキリギリスを見た場所から90m近くも距離があり、その間にマンションもあるし、猫が通れる程の建物と建物との間の隙間もあるし、草が生えている所もある。それなのに私が住んでいるこのマンションの更に屋内駐輪場の奥にある階段の所まで来ていたキリギリス。こんな奥まで来て、階段を上ろうとしていたのかもしれません。

倒れたキリギリスを発見した時とても「後悔」し胸が痛くなったことで、探していた答えに気付きました。

最初に道路で発見した時、直ぐに「どこかへ運ばなきゃ!」と思った素直な気持ち、その心のままに行動することが私の真実であり、ベストな選択なのだということに。
「あなたがその時感じた心の気持ちを優先させて」と神の使いのキリギリスが私に示してくれたのでしょう。

自分の心と一致する行動をとる。ただそれだけ。
『手を出してはならない』というのが正しいとか正しくないとか、そういう事ではないです。

人にはそれぞれ生まれて来たテーマがある。カトリックを信仰する人はそのテーマで生きるわけで、「この考え方が正しい」と周りも合わせなければいけないということはないんです。

また、世の中には「こうしなきゃいけない」という古い習慣や考え方に縛られがちです。自分の素直な気持ちのままに選択をすると、結果が最善の方向へ動き「悩み」が消えます。「悩み」が生まれるのは周りを気にしたり、周りの言うことや古い考え方が正しいと思い込み、それに従うことで自分の気持ちを殺し、心をないがしろにするからなんです。

地球には誰もが持つ権利の1つ「自由意思」があります。
自分自身がそれを優先して行使できるかどうかで、人生が大きく変わるのです。

もし迷いが出てきたり、選択に悩んだ時は、静かに自分の心の声に耳を傾け、心の声=直感に従いましょう。

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