熊野(2)文覚上人(もんがくしょうにん)

人を殺め、滝行では死んで命を復活させられたり、源頼朝との出会いなど、数奇な運命を辿る文覚上人の逸話をご紹介します。

文覚上人(もんがくしょうにん)

文覚上人(もんがくしょうにん)
出家前は「遠藤盛遠」(えんどうもりとお)

後白河法皇や源頼朝に重用された、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての僧侶で「神護寺」の興隆に力を尽くした人物。

<袈裟と盛遠>
遠藤盛遠は、上皇が居住する院御所の警備を担う北面の武士として鳥羽天皇の皇女・統子内親王に仕えていた。
同じ北面武士で従兄弟であった「源渡」の妻「袈裟御前」(けさごぜん)に一目惚れしたことで最悪の事態が。
彼女に「言うことを聞かなければ、お前の母を殺す」と脅して強引に迫ったという。困り果てた袈裟御前は、一計を案じて「私は夫ある身。それほどまでにお慕いくださるなら、夫を亡き者にしてください」と言い、「夫の寝所に忍び込んで、夫を討ってください」と持ちかけた。そして盛遠に渡が眠る位置を教えた。
深夜、渡の寝所に忍び込んだ盛遠。
刀を振り一太刀で渡の首を斬り落とした。しかし灯りで転がったその首をでみると、なんと袈裟御前のものだった。
袈裟御前は己の貞操を守るため、盛遠に嘘を教え、夫の身代わりとなったのだ。

この話は本当かどうか定かではないが、芥川 龍之介の小説や歌舞伎でも有名ですね。

<那智での荒行>
盛遠は自分の罪を悔やみ出家し文覚と改め、那智の滝で荒行に専念します。
那智滝の下流に文覚が修行をしたという「文覚の滝」が存在した。
*現在は台風12号による大雨で滝に巨岩が崩落し消滅。

滝壺に入って首のところまで浸かったまま数日。
何度か気を失いながらも耐え続けた挙句、とうとう息が絶えてしまった。
その時、滝の上から不動明王の眷属、矜羯羅童子(こんがらどうし)と、制多迦童子(せいたかどうし)がやって来て助けられた。
その体を撫でると生きを吹き返したという。
それが2度も生還したというから正に奇跡。
そのシーンが描かれた浮世絵が有名絵↑

<流罪先で源頼朝との出会い>
その後、「神護寺」の再興を後白河法皇に、「神護寺に荘園を1箇所寄付してくださらぬうちは立ち去らぬ」と強引に迫り続けたことで、ついには捕らえられて伊豆国へ流罪に。

伊勢国の安濃津から出航した後、遠江の天竜灘に差し掛かったところで嵐に遭遇。
文覚が船の舳先に立って、「聖が乗る船に危害を加えるとは何事か!」と大喝するや、すぐに波風がおさまったという。

そして無事に着いた伊豆国では、同じく流罪された源頼朝と出会う。それから数年、平家物語には、清盛が法王を幽閉したことに文覚が憤慨。文覚上人が懐から取り出した頭蓋骨を源頼朝の父「源義朝」の物と騙り、源頼朝に平家打倒の挙兵を促したと記されている。

<晩年>
頼朝が幕府を開くや、要人となって活躍する。
源頼朝が亡くなると、文覚上人は後ろ盾をなくし、朝廷の策謀によって佐渡へ配流させられた。
その後、帰京が許されたが、翌年には「後鳥羽上皇」の怒りを買い、対馬へ配流。
文覚上人は対馬へ向かう道中、九州で亡くなった。
承久の乱に敗れて隠岐国に流された後鳥羽上皇の前に、文覚が亡霊となって現れたと言われることもある。

この浮世絵からすると、体形は割とゴツい印象。
鎌倉殿と13人でも記憶に新しい人物。
とても情熱的で自分の意志を貫く怖いもの知らず。
自己中がやや目立って数奇な運命を辿るわけですが、あの滝行は凄いですね。

<水行について>
私も一時期は雪が降る真冬でも暖房を付けず、お風呂場では自分を清める為、お水を何度もかぶる水行をやっていたことがありましたが、真冬の滝つぼの中とはわけが違います。
命の危険も省みずそこまで没頭できる信念の強さに感服します。

ちなみに自宅で水行を行うにしても、きちんと身体に問題ないか医師と相談して行いましょう。
心臓麻痺や低体温症になる可能性があるので、必ず家族にも伝えておきます。

修験者で水行を行う際は御付の人やそれを指導する人が必ずいます。
肉体的な危険だけでなく、霊的には逆に滝に落ちている邪気を拾ってしまうからです。
ですから、滝行は生半可な気持ちではできないんですよね。

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