熊野(3)花山天皇(かざんてんのう)

花山天皇(かざんてんのう)

花山天皇(かざんてんのう)冷泉天皇の第一子で日本の第65代天皇。
冷泉天皇が発狂したため、2歳で皇太子になり、17歳で即位。退位後、花山法王となる。

<どんな人>
彼は絵画・建築・和歌など多岐にわたる才能があり、その発想も豊で、和歌においては在位中に『拾遺和歌集』を親撰し『拾遺抄』を増補したともいわれ巡礼しながら多くの和歌を作っている。
その反面、即位式で「王冠が重いから脱ぐぞ」と言って脱ぎ捨てたり、高御座に女官を招き入れたり女性のスキャダルも多く逸話がある。

<最愛の妻を亡くす>
忯子とは文のやり取りをしていく中で忯子に興味を持ち、同じ境遇の分かり合える部分があったのか次第に二人の距離は近づき、ついに花山天皇がプロポーズ。お互いが気の合う、かけがえのない存在と思うようになり常に離れず一緒にいた。
そして忯子が懐妊。
幸せの絶頂と思われた矢先、忯子が流産死。わずか17歳だった。

<出家>
忯子の死にショックを受け悲しみにくれる花山天皇。
「出家して御魂を弔いたい」という事を口にする。これは都合がよいと考えた藤原兼家。
兼家の三男道兼(粟田殿)が、自分も一緒に出家しますから」と言って内裏から連れ出そうとする。
この時天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしい」と一度は躊躇するが、今しかないというような理由づけをして連れ出す。

<安倍晴明の予言と花山天皇の退位>
花山天皇が退位する時、他の誰にも言わず、すぐに実行されたが、星の動きを見た安倍晴明が天皇が退位することを察知していた。
<986年6月23日の寛和の変>

それが紀伝体の歴史物語『大鏡』にも残っている。
986年6月23日夜明け前、内裏を抜け出した花山天皇は、道兼とともに山科の元慶寺に向かう。
安倍晴明の屋敷では
「帝下りさせ給ふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。 参りて奏せむ。車に装束せよ。」
「天空に天皇が御退位されるという現象が起こった。ただ、既に御退位は決まってしまったらしい。直ぐに支度をせよ。」

宮中へ報告する為に式神へ伝えた。
外へ出た式神が「天皇は、今、この前をお通りになったようです」ちょうど安倍晴明の屋敷前を花山天皇を乗せた牛車が通り過ぎ、時既に遅しの状態だった。

在位2年を待たずに19歳の若さで退位、出家した。

<花山法皇vs藤原隆家>
996年に藤原伊周(これちか)と隆家兄弟が花山法皇に矢を射かけるという大事件が起きる。
それ以前から花山法皇vs藤原隆家が起きており日増しにエスカレートしていった。
歴史物語『大鏡』によれば、ある時法皇は、「自分の邸宅の門前を無事に通ることは出来ないだろう」と言って隆家を挑発。
「それくらいのことは出来る」と挑戦を受けた隆家。隆家は頑丈な牛車を用意し、仕掛けてやろうと50人から60人の従者を従えて花山院へと向かった。
花山法皇は獰猛な僧侶を中心にした80人から90人もの従者を配置し、彼らは身の丈ほどもある杖と大きな石を持って待ち構えていた。
さすがの警備に隆家は法皇の家の前を通ることはできなかった。

<皇女殺害事件>
出家後も好色の噂はあった。
出家後、乳母子の中務とその娘平平子を同時に寵愛して子を産ませた。
また『栄花物語』では平子腹の皇女1人のみ成長したといわれる。
しかし1024年12月6日にこの皇女は夜中の路上で殺され、翌朝、野犬に食われた酷たらしい姿で発見された『小右記』
この事件は京の公家たちを震撼させ翌1025年7月25日捜査の結果、容疑者として法師隆範を捕縛、その法師隆範が藤原道雅の命で皇女を殺害したと自白。
藤原道雅の父は、花山法皇に矢を射掛けたあの藤原伊周である。
(事件そのものは盗賊の首領という者が自首をしたため、藤原道雅からの指示という点は有耶無耶になってしまった)

<出家後の活動>
出家後は播磨国の圓教寺に入り、比叡山延暦寺に登り戒壇院で灌頂受戒。
法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺でこの宝印を探し出した。
花山法皇の観音巡礼が「西国三十三所巡礼」として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっている。

摂津国の東光山で隠棲生活を送っていたとされ、この地には御廟所があり花山院菩提寺とし西国三十三所巡礼の番外霊場となっている。
花山院菩提寺の真南に位置する六甲山山頂付近の六甲比命神社の磐座群の中の仰臥岩に、花山法皇、仏眼上人、熊野権現連名の碑がある。

花山天皇は良くも悪くも書かれる人。
特に好色でダメダメ人間のように悪評されることがありますが、当時の天皇は私達が思っている以上に重責で縛りがきつく、政治のコマとして頻繁に利用されていた為、幼少期から信頼できる大人がいなくて、さぞ辛く苦しい日々を過ごされたことが窺えます。
また、天皇に道徳的なことを教える人がいなかった為、その行動が奇行にみえたのもそうした理由でしょう。
元来、愛情深く人を大事に出来る人。藤原氏に計られたとはいえ、そのまま天皇でいるよりは出家した方が政権争いに巻き込まれず、自由があり、自分が望む暮らしができたのではないでしょうか。

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